バウンダリー
エピローグ/
“センス・オブ・ワンダー、または青に融けゆく話”






【The Boundary】
Epilogue/“センス・オブ・ワンダー、または青に融けゆく話”






お気に入りの歌を口ずさみながら、木漏れ日が差す山道を歩く。
母が同じように口ずさむのを長いこと見てきたため、この曲はいつの間にか彼女自身にも伝染していた。
山を歩きながらこうしていると、色々なことを思い出す。

「あ」

やっとその場所を見つけ、ため息をつく。
先日見たばかりの、ボロボロの古びた祠。
何も変わっていなかった。
ただ一点、その中に飾られていた絵画がもう無いことを除いては。

雪は少し場所に迷ったあと、祠の前に屈み、持ってきた風呂敷を広げた。
油揚げと熟した桃、それから焼き鳥と、他にもいくつかの好物。
母が持たせたものだった。

これで良し。
あとは、張本人だけだ。

彼を見つけるのは意外と簡単だった。
何せ気配で分かる。

「――そこにいるなら、言いなさいよ」

祠の周囲を囲む木々の中から、ゆったりとした足取りで蒼い毛の獣は現れた。
この山の主。
そして自分の弟。

雪は立ち上がって、狼と向き合う。

「雨。あの絵は、もとの場所に返したよ」

狼は何も言わず、ただじっと自分を見ている。

「ここに返せなくて、ごめんね。でも、もう何も起きないわ。約束する」



ここに母ではなく自分が来たのは、この報告をするためだった。
あるべき場所に絵画は戻った。
雨には、自分の口で言いたかった。

「……それにしても、随分デカくなって。すっかり山の主って訳?」

まじまじとその姿を見て、雪は呟いた。
あの時は暗闇で、しかも激しく動いていたため、その姿をちゃんと見ていなかった。
立派になった、と言うことには抵抗があり、言及するのは体の大きさのことだけに留める。
どんな姿であっても、彼はひとつ年下の弟だ。

「ちゃんと務めを果たしてるのよね? あんたコミュニケーション能力無いから心配だわ。まぁ、山じゃそういうの要らないのかもしれないけど」

それまで全く反応を返さなかった雨狼が少しムスッとしたような表情になったのを見て、雪は笑った。
やっぱり、雨にはこの表情が似合う……と思うのは、姉の偏見だろうか。
少なくとも、久々に会う弟にこういう口を利いてしまうのが、自分の悪い癖なのは間違いないか。

「ごめん、言い過ぎたわ。仕事してなかったら、あの時私と会わないものね」

それから、と、雪は付け加える。

「助けてくれて、ありがとう」

あの夜助けられたことの礼を、まだ言っていなかった。
母と同じく、自分を助けてくれた、たったひとりの弟へ。

「――じゃあ、もう行くね」

少し名残惜しかったが、もう時間だ。
あまり迷惑はかけられない。
せめて弟が何か言ってくれるかと思ったが……まぁ、狼だし。

「バイバイ、雨。元気でね」

弟に背を向け、帰ろうとした時だった。

「雪も、しっかり生きて」

後ろから聞こえたその言葉に、足が止まる。
一瞬躊躇してから、少女は振り向き、大声で言った。

「バーカ! それ、母さんの台詞でしょ! 知ってんだから!」

そして笑いながら付け足す。

「あんたもね! 山の主サマ!」





一般の山道に戻ると、そこまで連れ添ってくれた友人の姿があった。
ホッとする。
正直、遭難したらどうしようかと思っていた。

「言ってきた!!」

大声で宣言する雪を見て、少年はホッとした表情を浮かべた。
そしてふたりは太陽の照らす山道を降りていく。
雪は、振り向かずにずんずん降りていく草平の後ろを付いていく。



弟も、目の前にいる彼も、進むのが早い。
突然、置いていかれる気がして、雪は歩を速めた。
そして草平を追い越した。

「決めた。草ちゃん、私今日で夏休みの宿題、全部終わらせるから」
「は? なんで?」
「何が何でも」
「お前……そんな勉強ばっかやってると馬鹿になるぞ」
「草ちゃんよりは馬鹿じゃないもん」

今度は、草平が自分を追い越す。

「じゃあ、俺も今日終わらせる」
「え? なんで?」
「何が何でも」
「……意地っ張り」

雪はまた少し歩を速め、草平の真後ろに付いた。
今度は追い抜かず、しかし離れることもない。

手が触れた。
離さずに、強く握る。
草平の手が握り返してきたのを感じて、雪は笑った。

「ありがとう」







これから面会する相手のことを考える。
身だしなみを整え、軽く咳をしてから、その扉を軽く二、三回ノックする。
入りたまえ、という声が聞こえて、一人はドアノブを回した。

トーキョー・ウィーク本社出版部長は、いつものような不機嫌そうな表情で中央のデスクに座っていた。
昔、成田が――酔った勢いで――この部長に、どうしてそんな表情をしているのかと尋ねたことがあるらしい。
本人曰く、これが普通の表情なのだそうだ。
あまり信用できない。

「まぁ、座りたまえ」
「はい」

まずは第一段階クリアだ。
本当なら、ここで一言駄目出しされて帰らされることもある。

「君の原稿を読ませてもらった」
「ありがとうございます」
「報道部での君の仕事ぶりは知っているが、この内容は少々意外だったよ」
「そうですか?」

部長は頷き、手元に握っていた一人の原稿をぱらぱらと捲る。

「君の書く記事は大抵の場合、一歩引いた視点だったからな。まぁ、記者としては正解なのだろうが。それに比べると今回は随分と……大胆だな」
「褒めて頂けている、と受け取って良いのでしょうか?」
「それは君の考え方による。少なくとも私はそう感じた、それだけだ」

この会話の間も、部長の表情は変わらなかった。

「この内容には興味が沸いたよ。話題性もある」

この言葉に一人の顔は一瞬綻んだ。
だがね、と部長は続け、この反応を強制終了させる。

「出版部としては、これを世に出すべきか決めかねている」
「どういうことですか?」
「内容が扇情的過ぎる、というのが主な反対意見だ」

部長は原稿を置いた。
身体を前かがみにし、両手を顔の前で組む。

「一人くん。君は何を思ってこれを書いた? これを世に出して、どうしたいのだね?」

刺すような眼光が一人に向けられる。
この答えは決まっていた。

「気づいてもらうためです」

背筋を伸ばし、拳を膝の上で固め、一人は答える。

「今回の事件、かつての英雄同士の戦いは、最悪の結末は回避しました。彼ら自身が平和を望むことで、世界は生き長らえた。しかし、また同じことが起きないとは限らない。そしてその時には、本当の悲劇が起きてしまうかもしれない」

自分が見た光景を思い出した。
それから英雄と、自分のパートナーの言葉を。

「今まで私達は、ヒーローのお陰でこの世界が守られ、またヒーローのお陰で世界の混乱が起きていると思っていた。その幻想はもう打ち砕かれました。彼らを崇めたり、糾弾したりしていればいい時代は終わったんです」

膝の上の拳に、不思議と力が入った。

「私達の世代が、それに次の世代が気づくために。これが書いた理由です」

しばらく、部屋に沈黙が流れた。
やがて部長は両手を崩し、椅子の背もたれに体重を預けた。

「分かった」

短い言葉だった。

「出版部の皆は私が説得しよう」

この言葉に、一人の身体からは力が抜け、とっさに頭を下げることしかできなかった。
もちろん、この最中も部長の表情は不機嫌そうだった。
本当にこれが普段の顔なのかもしれない。

「今後については追って連絡する。戻りたまえ」
「分かりました」

静かに立ち上がり、一人は扉の前まで移動する。
ドアノブを握る前に、改めて部長に一礼した。

「ありがとうございました、及川部長」

そして一人は退出した。



ふぅ、と溜め息をつき、ポケットからスマートフォンを取り出す。
一件、不在着信が入っていた。
ロックを解除し、その番号へ電話する。

「もしもし」

懐かしい声が聞こえてきた。
やっと緊張が解けた気がした。

「何とかなったよ。約束通り、帰ったら祝ってくれよ」

聞こえてくる声に、笑いが込み上げてきた。

「これから忙しくなるぞ」

そして一人はまた歩き出した。





及川悠紀夫は、佐倉一人が退出した後もしばらくはそのままだった。
やがてゆっくりと手を伸ばし、一人の原稿を再び捲る。

「もう、後は定年退職するだけだと思っていたんだがな」

どうやら時代は、そう簡単には終わらないらしい。
最初のページが指にかかる。
何となく、及川は再び原稿を読み始めた。







"この物語には、あなたがおそらく知っているヒーロー達が登場します。
しかし、彼らの伝説や英雄的行為は、この物語では既に過去のものです。
人生が最良の日だけで構成されているわけではないように、ここに登場する英雄達も、それぞれの戦いの後の世界で生きています。
この物語は英雄譚ではありません。
ヒーローだった者達と、ヒーローでない者達の物語です。"







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