バウンダリー
1/Side:White
“風小路”


きらきらした世界が広がっていた。
ひと昔どころか、ふた昔くらい前の街並み、いくつもの古びた民家。
すぐ近くに草原や川もあって、現代の風景にはあまり見えない。
何より目につくのは、いくつもの不思議な模様がついた卵が転がっていること。

しばらくその風景を見回しているだけだったが、何時の間にか、目の前に誰かが立っていることに気づく。
二メートルくらいの長身の影。
蒼いマントで身体を覆っており、どんな姿をしているのかは分からないが、その瞳は自分を捉えて離れない。

「ようやく見つけた」

耳というよりも、頭の中に直接声が響いてくる。

「まだ気づいてすらいないか」

彼は微動だにせず、自分を値踏みしているような様子だった。
なんとなく居心地が悪い。

「だが、適任だ」
「あなたは誰?」

声に出したつもりだったが、この声も本当に出ているのか分からない。
自分に、自分の声が聞こえない。

「今は知る必要はない。間もなく解る」

それから彼は何も言わなかったが、途端に酷い不快感に襲われ、徐々に目の前の世界がぼやけていく。
それからぐるぐると視界が回転し、代わりにけたたましい音が聴覚を刺激する。

ベルの音。

それから彼女は、瞼を開いた。






【The Boundary】
1/Side:White“風小路”






午前中のみの授業を終えてから電車とバスを乗り継ぎ約2時間。
重い荷物を引きずって中学校から久々に自宅に戻り、鞄や、部活の道具を自室に置いた。
長旅の疲れから、その後風呂に入り、ご飯を食べただけで、雪の金曜日は終わってしまった。
目覚まし時計をかけていただけでも昨夜の自分は偉かったのかもしれない。
外は快晴で、雲ひとつ無い。
こんなかんかん照りの日でもうなされることなく快適な睡眠ができるのは、この家の通気性の良さのおかげだ。

のろのろと起き上がり服を着替えると、台所にある机の上に書置きがあることに気づいた。

「雪へ
おはよう。疲れてたみたいだけど、よく眠れた?
母さんは堀田さんと土肥さんと5泊6日の四国旅行に行ってきます。
今日の分の朝ごはんと晩ごはんは作っておきました。
冷蔵庫に入れてあるから、チンして食べてね。
明日からは韮崎さんの家でごちそうになってください。
(準備や片づけはちゃんと手伝ってね)
庭のお手入れ、よろしくね。
何かあったらいつでも電話してください。
お土産楽しみにしててね     母より
PS・デート楽しんできてね」

母らしい、綺麗な字で書かれた文章を見て、雪は若干申し訳ない気持ちになった。
何せ昨夜は夕飯を食べただけで、ほとんど片づけを手伝いすらせずに寝てしまったのだ。
母からすれば久々に会う娘だったはずなのに、昨日の自分は物凄くだらしなかった気がする。
今日から四国旅行──多分、母が雪を産んで以来、ここまで長い旅行は初めてだ──に行くのは前から聞いていた。
自分の準備だってあっただろうに、悪いことをしてしまったと思う。
それにしても……

「デートじゃなくて、ただの買い物だってば。母さん」

追伸を見ながら、雪はぼそっと呟いた。






朝ごはんを食べ、庭の手入れを終えると、雪は出かける準備を始めた。
とは言っても、これはそれほど時間をかける事ではない。
少なくとも、雪自身はそう思っている。
以前、同じクラスの女子が休憩時間中に、彼女の爪にネイルコート(もちろん、校内持ち込み禁止だ)を塗ってくれたことがあったが、自分であれを買おうとは思わないし、それほど興味も沸かなかった。

キャスケットを被り、ポーチを肩に掛けて縁側に座っていると、それほど時間が経たないうちに迎えがやってきた。

「お、いたいた」

白い歯が焼けた肌によくコントラストをなしている。
最近また身長が伸びたみたい、と、雪はぼんやり思った。

「待った?」
「うぅん、良いタイミング」
「じゃ、行くか」
「うん」

その少年──藤井草平に従い、雪は家を出た。





「ねぇねぇ草ちゃん、どう思う?」
「んー」

ショッピングもそこそこに、デパートのエスカレーターを二人で降りながら、雪は草平に今朝の夢のことを話した。

「卵で街、なんだろ?」
「うん」
「はじまりの街じゃないか、それ? デジタルワールドの」
「はじまりの街? なんでそんなのが夢に出てくるのよ」
「分かんないけど。あ、パートナーデジモンができるとか?」
「え?」
「予知夢だよ予知夢。パートナーができるんだよ、近いうちに」
「えー……いいよ、パートナーなんて」
「なんでだよ、カッコいいじゃんか。もしかして選ばれし子供になれるとか? 羨ましいよ」
「興味ないよ」

エスカレーターから、ガラス張りの天井から西日が入る広場に降り立つと、彼女は前を歩いていた草平を追い越し、並べられた椅子に座った。
広場には多くの人が集まり、天井近くに設置された大型ビジョンに視線が集中している。
白い背景にピンク色の鍵型マークが映り、カウントダウンが進んでいた。

「ふぅ、なんとか間に合ったな」
「家でも見れるのに」
「パブリックビューイングで観ることに意味があるんだよ」
「分かんないなぁ」

片手に握ったコーヒーを飲みながら、目が輝いている草平を見て溜め息をついた。
彼の今日のお目当てはどうやらショッピングではなく、このイベントらしい。
周りを見ても学生や社会人の男性ばかりで、自分のような女性は圧倒的少数派だ。

画面のカウントが0になると同時、盛大なファンファーレが鳴り響き、周囲からワッという歓声が響く。
続いて、眼鏡を掛けた2Dのアバター──レトロゲームのキャラクターみたいだ──が大型ビジョンに映った。

「レディース・アンド・ジェントルメン! OZチャンピオンシップにようこそ! 今大会は世界最大のソーシャルネットワークサービス・OZ主催の、最強のマーシャルアーツプレイヤー決定戦です! 一ヶ月間の日本大会もいよいよ決勝戦!本日はその様子を生中継いたします!」

画面内で大会概要を説明するアバターの方は一切見ず、隣でスマートフォンを操作する草平に気づいて、雪は首を傾げた。

「見ないの?」
「違う違う。OZでログインすれば試合見ながら公式タイムラインで実況できるんだよ」
「実況?」
「説明面倒だから雪もログインしろよ、ほら」

言われるがまま自分のスマートフォンを操作しOZへログインすると、久々に見る自分のアバター──イヌ型の耳をつけた、二頭身の女の子のアバター──が現れ、草平のいる『【キング】OZチャンピオンシップ決勝実況【復活】』と書かれたコミュニティへ入室する。
そこには既に凄まじい人数がログインし、アバター達が信じられないほどの速度でテキストを発信していた。

「うわ、凄っ……」
「だろ?」
「これ全部読めるの、草ちゃん?」

各アバターのテキストは1行か2行程度だが、それがリロードする毎にどんどん増えていくので、とても人間の目で追える気がしない。

「いや。雰囲気?」

やっぱり私には分かりそうもない。






薄暗い巨大な部屋には、立体映像の下で、天野ユウがキーボードを叩く音が響いていた。

「おっ」

彼らの正面に設置された巨大ビジョンに、いくつかのデータが浮かび上がった。
ユウは椅子の背もたれに体重を任せ、後ろに声を掛ける。

「まさかのまさかですね。どうします?」
「間違いないのか、これは?」

この質問には肩を竦めるしかない。

「ネット上に打ち込まれた個人情報である以上、100%とは言えません。でも該当しそうなのはこのくらいですし、何より今しかチャンスはありませんよ」

ため息が聞こえたが、これもしょうがない。
ほとんどヒントが無いところから始めた作業なのだ。
時間が無い以上、精度に期待されても、それに応えるのは無理というもの。

「まぁ、当たってみましょうよ。駄目なら駄目で次にいけばいいんです」
「上手くやれよ」
「もちろんですよ」

笑みを返すと、彼は再びキーボードを叩き、自分のパートナーをOZへログインさせた。

「タギルには感謝ですね」
「アイツは多分、ただやりたくて参加してるだけだけどな」

大型ビジョンに、リアルタイムで中継されている映像が出現する。
紫色の竜が映っていた。





「決勝戦・青コーナー! 今大会初参加ながら、破竹の快進撃で決勝まで駒を進めた新鋭! アレスタードラモン選手の入場です!!」

歓声と共に、OZの公式ロゴを施された巨大リング上へ、その竜型デジモンは上がった。
紫色の肉体に、赤いアーマー、巨大なアンカーが装備された尾。
全身に歓声を浴びながら、大声で叫び声を上げる。

「おっしゃー! いっくぜぇぇぇ!!」

声が静まると、今度は周囲も暗くなる。
観衆のアバター達も何かを待っているように静かになった。

「赤コーナー、OZチャンピオンシップ殿堂入り王者、今シーズンからまさかの電撃復帰! ノーシードから圧倒的な強さで決勝へと勝ち上がり、その実力が今尚健在であることを証明いたしました! キングカズマ選手の……入場です!!」

白煙がリングサイドから上がり、長身のウサギ型アバターが姿を現した。
サーバーが落ちるのではないかと思うほど熱狂する観衆。
赤コーナー側に設置されたビジョンに、彼のプロモーション映像が流れ始める。

“王者・キングカズマ”

金髪を生やしたウサギが拳を握り右腕を挙げると、熱狂は最高潮まで高まった。



「なぁ、明らかにあっちの入場の方が盛り上がってるんだけど」
「だって相手は殿堂入りチャンプだし」

アレスタードラモンが不服そうな表情で、リング脇に立つ人間……明石タギルへ呟く。
彼はアバターであって、アバターではない。
彼の肉体はデータ化し、実際にOZの中に潜入している。
バレれば失格以前の大問題だが、彼らのチームの研究班が、その技術をフルに活用してココへ送り込んでいる以上、あまり心配は必要なかった。

「なんかカッコいいビデオ作られてるし」
「スポンサーが付いてるからな」
「レフェリーの紹介も長いし」
「電撃復帰でしかもノーシードとか話題になるからな」
「……まぁいいか。オレ達の仕事はアバターを集めることだし」
「でも勝つぞ」
「やる気あるのか無いのか、どっちなんだよタギル」
「勝ちたいに決まってんだろ! だって決勝だぜ、決勝! いいかアレスタードラモン、まずは第一印象が大事だ。自信持っていけよ」

あくまで作戦成功を主眼に置いての発言なのか、それともただ単に勝ちたいだけなのか、これは恐らく後者だ。
この作戦の立案者はタギル本人。
本人は「効果的な作戦だ」とか会議の場でプレゼンしていたが、誰の目にも彼が「OZチャンピオンシップに出たいだけ」なのは明らかだった。

だが、とは言え、アレスタードラモンが勝ちたくない、と言えば嘘になる。
良くも悪くも彼はタギルに似ているのだ。

「制限時間は180秒3ラウンド、延長は1ラウンドまで。それでも勝敗が決まらなければジャッジによる判定となります。コード改造された武器、アイテムの使用は禁止。その他の規約と反則行為はOZマーシャルアーツ公式レギュレーションに則ります。両者、準備はよろしいですか?」
「ぐぬぬぬぅぅぅ……」
「……」

ルール確認を行う平面のアバターを尻目に、凄まじい形相で睨みをきかせるアレスタードラモン。
一方のキングカズマは涼しい顔で紫の竜を見つめている。

「それでは参りましょう、OZチャンピオンシップ日本大会決勝戦! レディー・ファイト!」





先に攻撃に出たのは紫の竜だった。
ゴングの音が鳴った瞬間に飛び出し、敵へ突っ込む。
キングカズマは一歩だけ右に動き、その攻撃を回避した。
まだ攻撃の構えすら取らず、両腕を垂らして立っているだけだ。

ズンという音と共に、アレスタードラモンは両腕を前に出し、体に急ブレーキをかけた。
逆立ちしようとして失敗したような、不格好な状態。
それを奇妙な姿だと思う暇があるのは観衆だけで、キングカズマにその余裕は無かった。
巨大な尾のアンカーが自分に向かって伸びてきたからだ。
とっさに防御姿勢を取ったが、アンカーは右肩を裂き、キングカズマのHPを削った。
観衆が驚きの声を上げる。
このトーナメント戦でキングカズマの体力ゲージを削った者は初めてだった。

「……!」

上下反転した竜の顔がニヤッと笑う。
兎の戦士は攻勢に出ようとしたが、思うように体が動かなかった。
今度は、後ろから戻ってきた竜の尻尾が、彼の胴体を捕縛している。

「今だ、アレスタードラモン!」
「マッハフリッカー!!」

一気に距離を詰めて、身動きのできないキングカズマに拳の連撃を叩き込む。
なすがままにされるキングカズマ。
彼の体力ゲージが小刻みに、しかし確実に削れていく。

対戦相手のHPゲージが半分以下になったことを確認し、アレスタードラモンは彼の体を空中へ放り投げた。
自分の勝ちだ。
経験上、ここまでの攻撃でHPゲージが半分を切っていれば、次の技で確実にKOできる。
そしてこの状態から尾を使った回転攻撃・プリズムギャレットを避けられた者はいない。

これで終わりだ。
アレスタードラモンは尾を戻し、次の攻撃を行おうとした。
すると、アンカーと一緒に、それに掴みかかった兎の戦士も戻ってきた。

「え……」

尾の動きで勢いを付けたキングカズマの拳が、アレスタードラモンの顔面を殴り飛ばした。
意識が途切れそうなほどのクリーンヒット。

「ぐはっ!」

体がふらつく前に、キングカズマは再び尾を掴み、今度はアレスタードラモンを床に叩きつけた。
大幅に自分の体力ゲージが削れる。
身動きできない。
キングカズマが目の前に迫っていた。

そこから先は、よく覚えていない。





“試合終了ーッ! 1R・KO! 圧倒的です! 王者キングカズマ選手! アレスタードラモン選手を破り、OZチャンピオンシップ決勝を制しました!”

あぁ、終わっちゃった。

すっかりダウンしてしまった竜のデジモンに対し、キングカズマは両腕を上げて大歓声に応えていた。

“キングカズマ最強!”
“やっぱりキングが勝った!”
“誰だよキングはもうオワコンとか言った奴wwww”
“TUEEEEEEEEEEEEE!!”
“出、出〜〜〜wwww空気読不可優勝奴〜〜〜wwww”


上空のビジョンはいつの間にか画面が切り替わり、キングカズマの顔に「誰の挑戦でも受ける――!」という字幕がかかっている。
草平も多くの観衆同様、すっかり興奮状態で、いつもの冷静さはあまり表情には見られない。

「すげー! やっぱキングカズマ強ぇー!」
「あっという間に終わっちゃったね」
「それだけキングがすごいってことだろ? カッコいいなぁ……」

マスコミの腕章を付けたアバター達の囲み取材(変な風景だ)を受けるキングカズマに、すっかりトーンダウンした表情を浮かべながらリングを降りていくアレスタードラモン。
視聴者に向けて試合のまとめを始めるアナウンサーのアバター。
試合も終わった以上、これ以上いてもしょうがないかな……そう考え、雪のアバターが実況コミュニティの席を立ち上がった、その時。

彼女のアバターの背後に、自分に向けてテキストを飛ばしてくるデジモンの姿があった。
黄色い鎧を纏った、忍者のようなデジモン……。




“祠の絵画”




テキストを読んだ瞬間、全身に寒気が走った。





何人かの前に立ち、天野ユウは顛末を説明した。

「ログアウト?」
「はい、ログアウトです。つまり逃げられました。現在に至るまでそのアカウントはOZにログインしていません」

彼の説明を受けた何人かは、あからさまなため息をついた。

「そんなぁ〜。ってことはさ、何の情報も手に入ってないじゃ〜ん」
「全くだ! どうするんだキリハ」
「何を言う、グレイモン。これで十分じゃないか」
「その通りです」

ユウは笑いながら頷く。

「ツワーモンから“祠の絵画”と一言聞かれただけで逃げた。関連を見出すなら、十分ですよ」
「タギル君とガムドラモンは?」
「落ち込んで部屋に引き籠もってるわ」
「完全に自分の立てた計画ってことを忘れてるな……誰か慰めてやれよ……」
「大丈夫だろあいつらなら」
「そのアカウントの情報、他に掴めたか?」
「はい」

コンソールを操作すると、立体ビジョンにいくつかの情報が浮かび上がった。
ログイン履歴、利用しているサービス、役所にリンクされている個人情報……。

「これだけあれば良いでしょう?」

ビジョンの輝きによって会議室はやや明るくなり、会議に参加するクロスハートのメンバー達の表情を浮かび上がらせた。

theboundary1w-ill.jpg(98697 byte)

クロスハート幹部・李健良とテリアモン。
同じく幹部・牧野留姫とレナモン。
幹部・源輝二。
幹部・青沼キリハとグレイモン。
クロスハートリーダー・工藤タイキとシャウトモン。

「やはり、個人情報まで盗んで、民間人を巻き込むのは気が引けるね」
「もうその議論は済んだはずだぞ、健良。俺達には最早時間が無いのだ」
「そうだ、キリハの言う通りだ! 穏便に済む方法など、もうどこにもない!」
「も〜、脳筋ザウルスは役に立たないんだから黙っててよ〜」
「なんだと毛玉ワンコが!」
「静かにしろ」

健良は右手を顎に当てながらキリハの言葉を考え、眉間に皺を寄せる。
沈黙の中、輝二が口を開いた。

「昨夜、政府のビルに潜入を試みた拓也が、大怪我を負った。もう正攻法で戦うのは無理だ。それに、こうしている間にも政府は手がかりを探している。手段を選ぶという贅沢は、俺達には許されないのだろう。それに、このアカウントの持ち主もどうなるか分からないぞ。俺達が得た全ての情報は、とっくに奴らも持っている」
「……そうか。そうだね、輝二……」
「こんな話もあるわ」

留姫がポケットから一枚のメモを取り出し、健良に手渡した。

「一時間前、東京のネネから連絡が入った。大輔に接触できる人間を手駒にしたって」
「大輔……本宮大輔か?」
「決まりだな」

工藤タイキが動く。
彼は健良から回されたメモを読んで頷き、議論の終わりを伝えた。
クロスハートのリーダーは、画面に映る情報を見つめ、宣言する。

「このアカウントの少女を救う」





OZからログアウトした瞬間、現実の雪は走り出していた。
とにかく人の多いところに居たくない。
逃げたい。
何故? 分からない。
何処に? 考えられない。
身体を巡る血液の温度がどんどん上がって、沸騰しているような気がする。
この感覚は知っている。
おまじない……おまじないが必要だ。

「雪! おい、雪!」

気づくと、人通りの少ない、商店街の小路に逃げ込んだ雪を草平が追ってきていた。

「待って、来ないで、待って!」

最悪だ。
逃げなきゃ。
でも、逃げ場なんてどこにもない。

唐突に、後ろからぐいっと引っ張られ、雪は振り向かせられた。
壁際に背中をつけた雪の両肩に、草平が掴み掛る。

「駄目、駄目! 離して!」
「雪」

息を切らしながらも、草平は彼女を見つめ、目を逸らそうとしなかった。
雪は前を見るのに怯え、顔を伏せている。

正面を見たら、あれを見てしまう、見たくない。
もうとっくに完治してはいるが、耳の、微妙に他と肌の色が異なっている、あの。

「落ち着け、雪」

草平はそれ以上動こうとも、何をしようともしなかった。

「大丈夫だ、何もなってない。大丈夫」

目を開け、ゆっくりと、雪は自分の手を見る。

なんてことはない、普段の自分の手だ。
視界には入ってないが、耳も、口も、同じだ。
きっと自分は酷い、ぐしゃぐしゃな顔をしている。
だが草平はそのことには何も触れず、ただ一言だけ告げた。

「雪、帰ろう」






それから草平は、雪を自宅まで送った。
雪はほとんど黙ったままだったが、草平には大人しく従った。
周りから見れば、中学生の男女が帰路についているだけだ。
何の不思議もない。
だが雪の中には申し訳ない気分と居た堪れない気分が同居し、交通機関を乗り継ぐ度に、周囲の音や変化、人通りに対して過剰に反応していた。

「なんかあったら連絡しろよ、いつでもいいからな」
「うん、ありがとう」

見慣れた景色に着き、もう落ち着いた、大丈夫と何度も伝えると、草平は帰っていった。
正直なところ雪自身も、今の自分の精神状態が不安だったが、これ以上彼には甘えられない。
それに、慣れた自宅にいれば、いずれ落ち着く気がした。
風呂に入り片づけをすると、椅子に座りこむ。
花が用意していた夕食があるが、食欲が沸かない。
何も考えたくなかったが、頭が勝手に思考を始める。



昼間のあれは、何だったのだろう。
あれはテキストだ。
ただの文字列。
それが示す言葉も、単なる何かの合言葉で、あのデジモンは自分を誰かと間違えて話しかけてきたのかもしれない。

だが、いくら脳内で否定しても駄目だった。

祠の絵画。
それを私は知っている。
……。



また、今朝見たあの光景が見えてきた。
街がある。
たくさんの卵。
それから、あの蒼いマントの影。

「君に見てもらわなければならない」

彼が、自分に手を伸ばしてくる。

再び、途切れる。





ノックの音で雪は目を覚ました。

いつの間にか自分は眠ってしまっていたらしい。
まだ部屋は暗い。
時計を見ると、9時になるかならないか、という時間だった。
家の外からノックの音が聞こえる。
若干の気だるさが残る身体を動かし、雪は玄関の扉を開けた。

スーツを着た金髪の男と、羽のように長い耳を持つ小さなデジモンがいた。

「夜分遅くに申し訳ありません」
「あの、すみません、母が今留守で……あなたは……?」
「結構ですよ」

男が胸元から手帳を取り出した。
黒に、金色で文字が書かれた手帳。

「内閣情報調査室の高石タケルと申します。2、3お聞きしたいことがあります」



雪の知らないところで、何かが始まっていた。




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